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第2回 9月25日(火)18:30~

~オズの東京、オリザの東京~

上映作品:
『東京物語』
1953年、小津安二郎監督
136分・35mm・白黒

ゲスト:平田オリザ(劇作家・演出家、大阪大学教授)

1962年東京生まれ。1995年『東京ノート』で岸田國士戯曲賞、2003 年『その河をこえて、五月』で朝日舞台芸術賞グランプリ受賞。フランスを中心に世界各国で作品が上演・出版されている。その演劇 ワークショップの方法論は中学国語教科書にも採用された。2011年フランス文化省より芸術文化勲章シュヴァリエの叙勲を受ける。大阪大学では世界初のアンドロイド演劇にも取り組み、注目を集めている。

聞き手:深田晃司(映画監督『歓待』他)

1980年東京生まれ。2002年から2004年までに長短篇3本の自主映画を監督。2005年青年団演出部に入団、青年団の俳優とともに映画製作を開始する。2006年に『ざくろ屋敷』、2009年に長篇映画『東京人間喜劇』を発表。最新作『歓待』で第23回東京国際映画祭日本映画「ある視点」部門作品賞を受賞。

18:00
開場
18:30
開演。映画『東京物語』
20:45
解説・対談
21:15
終演

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【ゲストの紹介と挨拶】

司会・伊達: みなさん、こんにちは。本日の司会を務める映画プロデューサーの伊達浩太朗と申します。本日は「カルト・ブランシュ」、本年度の第3回目、最終回にお越しいただき、ありがとうございます。
本日は、皆さんに小津安二郎監督の『東京物語』を見て頂きます。言うまでもありませんが、日本が世界の誇る傑作のひとつです。
上映のあと、休憩抜きとなりますが、平田オリザさんと深田晃司監督に対談して頂きます。日本の演劇の第一人者である平田オリザさんの代表作「東京ノート」は、この映画をモチーフに書かれたと言われています。平田オリザさんが『東京物語』をどのように語るのか、私も楽しみにしています。
 早速、上映を始めようと思います。皆さん、最後までごゆっくりご鑑賞ください。

--- 映画『東京物語』(小津安二郎、1953年、136分)の上映 ---

司会・伊達: 皆さん、『東京物語』を堪能されたことと思います。ではこれから、平田オリザさんと深田晃司監督に、色々とお話しを頂きたいと思います。皆さん。どうぞ拍手でお迎えください。

深田: 初めまして、映画監督の深田晃司と申します。
平田: 平田オリザです。宜しくお願いします。
深田: 『東京物語』を一緒に観させてもらいました。この映画は何度目か分からないくらい観ていますが、やっぱり良いですね。ちょうど今月(9月)8日に、新作『ほとりの朔子』をクランクアップしたばかりなのですが、クランクアップ直後にこういう良い映画をみると目に毒だなとシミジミ思いました。色々な後悔ばかりが、まあ比較するのも図々しいのですが。
本日は、私は聞き手ということで、平田オリザさんに色々とお話を伺っていきたいと思います。今回、平田さんに『東京物語』ということでご登壇いただいたのは、平田さんが94年に初演した「東京ノート」という作品が、この『東京物語』をモチーフにしている。もともと平田さんは大変な小津安二郎ファンということで、その辺のお話も伺えればと思います。

【「東京ノート」と小津安二郎】

平田: 深田君からこういう催しに出てくれないかと言われて、最初はちょっとお断りしました(笑)。小津さんのファンといっても、演劇しかやってこなかったので、映画のお好きな方の小津ファンに比べれば多分全く知識もないですし、変なこと言うとまた色々ツイッターで(笑)、最近は厳しいものですから。ですが『東京物語』だったら、逆にあまりに定番すぎてそんなに喋らなくてもいいかもしれないし、まぁ『東京物語』についてよりも、「東京ノート」についてなら話せるかもということでお引き受けしました。
映画はもうご覧頂いて、これについてペチャクチャしゃべるのは野暮なことなので、少し「東京ノート」の話をさせていただければと思います。ご紹介いただいたように1994年に「東京ノート」という作品を書きました。翌95年に、岸田國士戯曲賞という演劇界では一番権威のある新人戯曲賞をいただいた。そのあと18年、僕の作品の中で一番翻訳点数も多くて、今12ヶ国語ぐらいに翻訳をされて、上演も15~6ヶ国まわってきました。私の演出だけではなくて、フランス人とかアメリカ人とか、韓国では「東京ノート」をさらに翻案して「ソウルノート」という題名にして、ずっとロングランで上演されたりして、大変恵まれた、世界中から愛される作品になりました。
 この「東京ノート」というのは、完全に『東京物語』のオマージュというかパクリです。地方から上京してきた人に、兄弟たちが冷たいのだけれども、義理のお嫁さんだけが親切にするという、全く同じ構成になっています。
 当時、うちの劇団に年寄りの俳優がいなかったので、地方でお父さんお母さんの面倒をみて暮らしている長女が上京してくる設定にしました。まわりの兄弟は仕事に忙しくてあんまり相手ができなくて、二男のお嫁さんだけが買いものとか美術館に付き合ってくれる。でもその二男は浮気していて、ちょっと家庭もぎくしゃくしている。そういう話にしました。あ、ずっと話していていい?(笑)
深田: どうぞ、どうぞ(笑)。
平田: 「はとバス」のシーンありましたよね。バスに乗って、そのあと多分銀座の松屋だと思うのですけど、銀座の松屋に上る。このあいだ銀座の松屋に行ったら屋上に上れないようになっていましたが、あれはもったいない。あれを名物にして売り出せば、世界中からお客さんが来ると思うんですが。
で、そこで復興をとげつつある東京をみて、「あなたのお家はどっち?」みたいな話をするあのシーンが凄く好きで。
 当時はデパートなんですよね。『東京物語』は昭和28年に作られた作品ですけれど、昭和30年代というのは、地方の人が東京に来ると必ず行ったのはデパート、そして劇場なんですね。だから小津さんの他の作品でも、上京してきた人が演劇を観るとかという場面がけっこうある。日本の場合には、劇場がデパートにくっついている。三越劇場とか、今でもPARCO劇場とか。ちなみにヨーロッパでは、劇場はホテルとくっついています。観光とくっついている。
 いまどき地方の人は、別に東京来たからといってわざわざデパートには行かない。どこに行くのかと思い、地方の方にいろいろ取材をしたんです。もちろん東京ドームとか東京ディズニーランドとかにも行くのですが、意外と多かったのが、特に女性に多かったのが美術館、あと水族館。地方にも今立派な美術館はあるのだけれども、東京で言うと原美術館とか根津美術館とかああいう落ち着いた場所に行って、おしゃれなカフェでコーヒーを飲んで買い物もする。誰か自分の好きな人と一緒に行ったりする時間がなかなか地方にはない、というような話を聞いて、「これは新しい『東京物語』ができるかな」と思って書いたのです。それがおかげさまでヨーロッパでもヒットして、今も上演が続いている。
深田: 『東京物語』は、言うまでもなく世界で最も愛されている日本映画の一本だと思います。その『東京物語』を下敷きにした「東京ノート」を上演する。当然海外の方からも『東京物語』と比較した反応が返ってくると思うのですが。
平田: そうですね。僕自身の仕事のフィールドとしてフランスが多いのですが、フランスでは圧倒的に小津安二郎監督です。黒澤明監督より小津さんなわけです。皆さんの中にも賛否とか好き嫌いはあると思うのですけど、もうフランスでの評価はそういうことになっている。ホントにほぼ皆が観ています。
僕の「東京ノート」をフランスの地方で、まあフランスは地方にも50ぐらい国立劇場があるのですが、そういうところを回っていきます。そういう地方都市でやる時、地元の映画館とタイアップして『東京物語』を上映して、そのアフタートークに今みたいに僕が呼ばれて話して、で翌日に今度は劇場の方で「東京ノート」を観てもらうみたいなのが何度かありました。凄くプロモーションが楽というか、「この『東京物語』が元です」みたいにすると、すっと入ってきてくれてありがたい。
深田: フランスは学校教育で映画を観せるのがもの凄く盛んで、学校であまりに観せ過ぎて映画嫌いになってしまう子もいるらくらいだと。で、あるインタビューで映画監督のセドリック・クラピッシュが語っていたのが、その監督の小学生の娘さんが「今日学校で小津の『お早よう』を観てきた。凄く面白かった」と言っていたと。日本の大学生というか、映画学校に通う学生でも下手すると観ていないのに、フランスだと小学校で観せてしまう。ちょっと驚きというか、羨ましい。
平田: そうですね。
深田: 向こうだと小津さんというのが、凄く浸透しているんだなあと。
平田: まあ、それはね。皆、まあ小津さん。今でいえば北野武監督。フランスの演劇人とかにとって北野武さんはもう神様ですから。でも「そんなに?」と思ったりもする。もう本当に、神様扱いなんだよね。
深田: そんなにですか。
平田: 好きな人はね。好みは分かれると思うけど。
深田: 確かにフランスに行くと、北野武さんの個展をやっていたりします。私はフランスの方に直に「北野さんの映画どう?」と聞いたことはなかったです。やっぱりそんな感じですか。
平田: 好きな人は、凄く好きですね。

【谷崎潤一郎と「無」】

深田: 平田さんの昔の著作を読んでいると、小津さんに言及しているのが幾つかあります。『都市に祝祭はいらない』(1997年)で、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画を観て、小津さんの「省略の技法」に凄く近いんじゃないか、など。それと、当時ミニシアターブームの中でまさに神様のような存在だったヴィム・ヴェンダース監督に対し批判的に比較していたりもしていました。そういった西洋の人たちの世界観と、小津さんと侯孝賢が共有している世界観の対比を論じていますね。
平田: そうですね。僕は海外の大学や、日本以外の先進国には国立の演劇学校というものがあるので、そこで教えることが多いです。で、そういうところでワークショップを、一週間とか、長いと一カ月とか授業をやります。一番最初の頃に話すことの1つが「沈黙」です。
 僕の芝居を見たことのある方もいらっしゃるかと思いますが、小津さんと比べるのも大変失礼なんですが、デビュー当時に演劇界の小津安二郎的なものと言われたように、私の芝居は静かで淡々としていて空白の時間が凄く長い。この空白の時間が長いというのは、フランス演劇界にとっては凄く衝撃的で、2000年に「東京ノート」でフランスでデビューした時の「リベラシオン」の最初の劇評は、2面ぶち抜きで「沈黙の帝国」。これはロラン・バルトの「表徴の帝国」のパロディというか捩りです。沈黙が長いということが、そのくらいフランス演劇界にとっては衝撃的だったんですね。
なぜそんなに沈黙が長いのか、学生たちに説明する時に、先ほども言ったように小津さんはもの凄く有名なので、「小津安二郎のお墓には『無』と書いてある」と。皆さんもご存じかと思いますけど、鎌倉のお墓に「無」と書いてある。
 フランスで有名な日本の作家は、もちろん一番有名なのは三島由紀夫ですが、その次に有名なのが谷崎潤一郎。不思議と谷崎文学に人気があるのです。谷崎の墓には「寂」、静寂の「寂」ですね。それと「如」(ごとし)というのが書いてある。この「如」とか「無」というのは、ヨーロッパでいえばゼロですが、そういうのはどちらかといったら西洋ではマイナスの概念。あまりよくない概念です。
 ところが仏教、とくに禅とか老荘思想だと「無」とか「如」や、何もしない「無為」とかが最高概念になる。特に禅などはそうですけど、技巧を究めて、あるいは修養を重ねて「無」すなわちゼロに至るというのが私たちの「無」に対する思想であって、「無」というのが最高概念なんです。
 ヨーロッパでは、「無」とか「空白」というのは、削って削って「無」になっていく。色々なものを取り払って「無」になっていく。でもそうじゃなくて、日本では技巧を究めて「無」に至る。小津さんの「空白」というか「無」の時間というのは、まさにそういう時間だと思うんです。あの台詞もない、カメラも動かないような時間まで、どうやってたどり着くかということを、恐らく逆算して台詞とかが組まれていて、あの時間を見せたいのだと思う。
 少なくとも、僕はそうやって演出をしています。戯曲の構造も、ここに大きな間があって、こう小さな間があって小さな間があって、こう中間に間があって、また小さな間小さな間があって、こう大きくなる、みたいな説明をしていくんですね。
 音楽でもそうで、クラシック音楽で「休符」と訳すから音のしない間を休んでしまうけれども、武満徹さんとか、あるいは最近お付き合いのある細川俊夫さんとか、日本の現代音楽の作曲家で国際的に通用している人たちというのは、休符ではなく音のしない時間を見せる、というか聞かせる。まあ音楽なんかが一番分かり易いのだけども、ジョン・ケージとか。
深田: 『4分33秒』とか。
平田: うん。派手だから。それはそれでいいのだけど、僕から見ると「俺達日本人には当たり前だよ」みたいなところがある。ヨーロッパの人たちの、そういう、自分たちにないものに挑戦していく努力は尊いと思いますよ。でも私達がそんなにジョン・ケージとかヴィム・ヴェンダースを殊更に賞賛する必要は無いのではという感じがあるんです。
フランス人には良い所も悪い所もあると思うのですが、フランス人の良い所は、自分達が出来なくて、でも価値のあるものをもの凄く賞賛してくれる。そこが一番良いところです。だからフランスで仕事をさせてもらえているのだと思うし、小津さんの評価も高いと思うんですね。
 あの空白というのは、私たち日本人には肌に染み込んでいるものなので、なかなかやっぱりヨーロッパの人に理屈では作り出せないところがあるんです。学校で教えたりするときには、それを理屈で説明しなきゃいけないんだけどね。そのときに、この話をよくしますね。
深田: この話を聞いてちょっと面白いなと思ったのが、小津さん自身もこういう『東京物語』の余白のある、ある意味日本人にとって馴染み易いスタイルに至る以前は、もの凄くハリウッド好きだった。特に『非常線の女』(1933年)なんかは代表的だと思うのですが、無駄に壁に英語が書かれてたり、映画の中が英語だらけで凄くバタくさい。フィルム・ノワールみたいな、夜の女がヤクザの男と事件に巻き込まれて不幸になるという映画を撮っていた小津さんが、逆の世界に入っていった。今の話を聞いていると、特に西洋にかけて考えると面白い。
平田: その辺のところは、僕は映画の専門ではなく勉強もしてないので分からないけど、僕は小津さんの中では『戸田家の兄妹』(1941年)が凄く好きで、あれなんか要するに「リア王」ですよね。
そういう西洋の古典に対する思い。教養も含めてそういうものが基盤にありながら、戦争の影響も多分あったと思うのですが、最終的に自分のオリジナルなものを発見していく過程というのが、特に戦後の小津映画の深まりなのではと、僕は素人なのでそういう風に解釈しています。

【小津安二郎との出会い】

深田: 「東京ノート」から海外の小津評価のことを聞いてきました。話を戻しますが、そもそも平田さんが小津さんを観始めた時期、どういう経緯で受容していたのか。
平田: 僕は大学時代にビデオが存在しなかった最後の世代です。大学時代にビデオがあったかどうかは結構微妙なことなんです。小津さんの作品は、恐らくテレビでは観ていたとは思う。でもBSもなかったし、小津映画は派手じゃないからテレビでの放送もあまりないし。
深田: 今だと小津映画はBSが定番でやってくれますが、ゴールデンタイムに地上波で流れるタイプではない。
平田: 日曜洋画劇場とか、洋画しか流れないからね。
深田: そうですね(笑)。
平田: まあそれでも観ていた。それからうちの父親が映画関係の仕事もしていたので。
深田: アゴラ劇場は、元々は映画も上映する形で設計されていたんですよね。
平田: そう。ご存知の方も多いかと思うのですが、大林宣彦監督というのは、私の叔父です。叔父と言っても血が繋がっているわけではないのですが。まあ大林宣彦監督の映画は尾道ですから、まさに『東京物語』です。そっちの話の方が面白いだろうから、そっちの話をしますか(笑)。
大林宣彦さんの奥様、大林恭子さんが有名なプロデューサーで、この夫婦のコンビでずっと映画を作ってきている。その大林恭子さんの姉が私の母なんです。先に大林宣彦さんと私の父親が、今でいうインディーズ時代に一緒に仕事をしていて、私の父親が大林さんに私の母親を紹介してもらったんですね。だから大林さんのおかげで、今私はここにいる(笑)。私の父親はもう亡くなったんですけど、「大林宣彦に16ミリを持たせたのは俺だ」が父親の生涯の自慢だった。
深田: それは、16ミリカメラを?
平田: そうです。私の父親の方が7~8年上。父は監督だった。
深田: インディーズ時代とおっしゃっていましたけど、平田さんのお父さんは確か脚本家。
平田: 脚本を書いていたけど、若いころは監督もしていた。
深田: それは初めて知りました。
平田: 大林さんがカメラだった。だけど、もう明らかに才能があると。カメラマンてもう監督みたいなものじゃない。
深田: 映画に関わられている人だと分かると思いますが、撮影監督の権限は現場でもの凄く強いです。
平田: 大林宣彦さんは、ご存知の方は多いと思うんですけど、元々ピアニストを目指していた。それで楽譜が読める。当時、男で楽譜を読めるのは珍しかった。で、楽譜を読みながら口笛吹いて、フィルムにハサミを入れていく。それで繋ぐと全部音の通りになっている。
深田: 音楽的なリズムで切っている?
平田: そう。自分で口笛を吹きながら編集して、繋ぐと音の通りになっている。それを見た私の父親は「新しい時代が来た」と思って監督は辞めたんだって。
深田: あ~。
平田: でもね、その後そんな奴は大林以外見たことがないから「ちょっと早まった」とも言ってた(笑)。
深田: そういう変り種の天才に遭遇してしまった(笑)。これが新しい時代だと。確かに平田さんのお父さんは早まったかもしれませんね(笑)。大林宣彦監督は有名ですし、優れた作品を残していますが、今見てもOnly oneな存在というか、結局その後に続く監督はいない。後にも先にも特殊な存在と言いますか。
平田: そういう環境で育ったので、もちろん小津映画も教養として、たまにテレビでやったら「見とけよ」みたいな中で育った。親にもよく映画に連れて行ってもらいました。
ぜんぜん関係ない話ですけど、『2001年宇宙の旅』が小学校1年の時で、銀座の大きな映画館で封切りだった。私の姉貴は8歳年上で中学生だったから、姉貴と父親で見に行くと。当時僕は『キングギドラ対ゴジラ』とかしか見てなかったけど、「宇宙」だから面白いだろうと思った。親父から「絶対難しいから止めとけ」と言われたんだけど「大丈夫」って言った。親父が、私がまだ漢字が読めないから、「途中で字幕の字を絶対に聞くなよ」と言って連れて行ってくれた。漢字が一つも分からなかったけど、意地で聞かないでちゃんと見たら、帰りにサンダーバードのプラモデルを買ってくれました。でも、あの宇宙船がくるくる回っている映像だけは覚えています。
深田: 同じ宇宙でも、だいぶ違う宇宙ですね(笑)。
平田: そう(笑)。そういう家庭環境だったので、映画はたくさん見ていた。でも小津映画を意識したのは、大学に入ったときです。うちの大学の映画研究会が新入生歓迎の上映会をやって、それが『東京物語』だった。初めてフルスクリーンで観て、僕がちょうど演劇を始めたころでもあったので、主演男優やっていた友達と2人で観て衝撃を受けた。その友達と三鷹で一軒家を借りて下宿していて、縁側があったものだから、ずっと縁側で小津安二郎ごっこをやっていました(笑)。
深田: 笠智衆(りゅう ちしゅう)みたいに、「そうかい」「そうだよ」を?(笑)
平田: 「空気枕入れやしたんか~」とか一日中やっていた(笑)。
深田: それ楽しいんですか?(笑)
平田: 楽しかった。「これだよ」って(笑)。当時は小劇場ブームで、野田秀樹さんとか鴻上尚史さんが出てきた時だったけど、自分がやりたいのは「こういうことなんじゃないかな」と思ってはいたんです。自分であまり演出していなかったので、そこから本当にそうなっていくのは、それから5年くらい。それが82~3年です。ちょうどその頃に、第何次だかの小津ブームがあるんです。
深田: 名画座とかで特集が組まれるとか。
平田: そういうのがあったんです。映画好きの方は分かると思うんですけど。若い人たちがそれを観に行ったりする。そのあと86年くらいになると、ビデオで見られるようになった。やっと昔の小津映画が普通に見られるようになって、借りまくって観ました。その時期と、僕の現代口語演劇が完成する時期が重なっています。その頃はたくさん見ました。
深田: その当時の演劇界の主流は、小津さん的な世界観や鈴木清順さんとは真逆な。
平田: そうです。もうそれは派手な。

【同時代人としての巨匠】

深田: 大学時代に、高田馬場に「ACTミニ・シアター」という小さな、イスがなくて全部座椅子のフラットフロアの名画座があって、そこに鈴木清順監督がトークショーで来られたことがありました。トークのあとに、ゲストとお客10人くらいで近所に飲みに行く。
平田: それは凄いね。
深田: 私の自慢の一つでして、鈴木清順監督を囲んで本当に普通に飲んだ。その時はたぶん大学1年生です。ちょうどその日の朝に、「ラピュタ阿佐ヶ谷」のモーニングショーで小津の『東京の合唱(コーラス)』を観て、そのあとACTミニ・シアターの鈴木清順特集に行った。飲みになり、鈴木清順さんと恐るおそる話しながら、「実は今朝、小津を観てからここに来ました」と言ったら、鈴木さんは笑いながら「そんな若いのに小津さんなんて見ちゃダメだよ」と。
平田: ははは(笑)。
深田: 「小津さんは団扇と風鈴しか動いていないじゃないか。映画は動かないとダメなんだよ」と、お叱りを受けました。でも、その冗談のような言葉のなかにある重みというか、僕らの世代だと小津さんというのは伝説、もう歴史上の人物で、マスターピース(傑作・名作)として受け入れる。でも鈴木清順さんの世代は、リアルに乗り越えなくちゃいけない存在だったのだなと。
平田: そうそう。面白いのは演劇界でもそうで、井上ひさしさんとかは「あんなのは」「やっぱり黒澤さんですよ」と小津さんの悪口言っていたよ。太田省吾さんは全然逆で、「黒澤なんて」。
深田: そこはちょっと派閥で分かれますね(笑)。
平田: 私たちは客観的に「小津も黒澤も素晴らしい」と思いますけど、やっぱり同世代に生きていると大変なんだよね。
深田: 目の前に現役として上の世代がいて、作品が公開されるたびに比較されて戦わなくちゃいけない。宮崎駿監督が手塚治虫に対して、もの凄く複雑な感情を抱いて、御自分の書いた漫画の原稿を全部焼いたとか。やっぱり同世代の人間として戦っている人たちは、また色々違うんだろうな。
平田: 今の日本映画もね、もうちょっと仲悪くすればいいのにね。
深田: まあ、意外と内実は(笑)。でも、どうでしょうね。上の世代は。
平田: なんか対立軸がはっきりしていない。
深田: 確かに対立軸ははっきりしないですね。映画界のマニアックな話になってしまいますが、「キネマ旬報」という老舗の映画雑誌と「映画芸術」のベストテンは、もの凄く真逆になる。「キネマ旬報」がベストテンとして載せている作品が、「映画芸術」だとワーストテンになっている。一見鋭い対立が起きているようですけど、この2誌は河を挟んだ対岸同士に存在するみたいな感じで、いわゆる喧嘩とか議論は起きない。「これでいいのかな」と思ったりします。いや別に喧嘩すれば良いわけじゃないとは思うのですが。
平田: 喧嘩は、面倒くさいからね。僕はある新人戯曲賞の公開審査で、僕も審査員だったんですけど、ある審査員に「つまんない芝居はお前だけでいい」と言われました。誰とは言いませんけど(笑)。
深田: ははは(笑)。いやあ、ありますよね、そういうこと。僕は「喧嘩すればいい」と言いながら、言われると凹む方なので、言われないで生きていきたいです。
平田: 僕もね、無用なトラブルは避けたいんで、下北沢とかあんまり飲みにいかない(笑)。
深田: ははは(笑)。

【平田オリザを撮った『演劇1』『演劇2』。そして世界最先端のアンドロイド演劇】

深田: 最後に告知なのですが、平田さんと、私も少しかかわっているドキュメンタリー映画が来月公開されます。青年団と平田オリザさんを、ずっと密着して追いかけた作品です。
平田: 映画ファンの方はご存じだと思うのですが、『選挙』や『精神』を撮った想田和弘監督が、私とうちの劇団(青年団)をテーマにドキュメンタリー映画を撮りました。『演劇1』『演劇2』という全部で5時間42分、要するに私の顔を5時間42分間にわたり見続けなければいけないという、修行みたいな映画なんですけど。意外とみなさん見終わった後は達成感があるみたいで。
深田: フルマラソンみたいな感じですね(笑)。
平田: そうそう、走り切ったみたいな。10月20日から渋谷のイメージフォーラムでやります。演劇の舞台裏は、あまりご覧なったことがない方も多いかと思いますので、見ていただけると。
深田: 私もちょっと映っています。それと私なんですが、アンドロイド演劇の『さようなら』という作品を、平田さんに許可を頂きまして、映画化しようとしています。クラウドファンディングで、資金集めから公開してやっています。
平田: 最後に、僕はいま大阪大学の教員なんですけど、大阪大学に石黒浩先生という自分にそっくりなアンドロイドを作った有名な先生がいて、その人と一緒に世界最先端のアンドロイド演劇をつくりました。11月はイタリアとデンマーク、12月はパリ、1~3月は北米と、まあ世界中回っています。
10月20日から、吉祥寺シアターでその演劇(「アンドロイド版『三人姉妹』」)を公開します。本物のアンドロイドと本物のロボットを使った演劇をやっていますので、お出で頂けるとありがたいと思います。
深田: 今日は遅い時間まで、ありがとうございました。
司会・伊達: 平田オリザさん、深田晃司監督、どうもありがとうございました。皆さん、どうぞ拍手でお送りください。
さて、今年の「カルト・ブランシュ」は今夜で終わりなのですが、「ぴあフィルムフェスティバル」の本祭は、2階の大ホールで9月28日まで開催されます。フィルムセンターに、また是非、御来場ください。
 以上をもちまして、本日の、そして本年の「カルト・ブランシュ」を終了させていただきます。長い時間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。