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第6回 12月13日(日)13:30~18:00

上映作品:
『駅前旅館』(1958年、豊田四郎監督)

駅前シリーズ24作品の第1作。
森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎などの豪華キャストが光る。
意外と知られていませんが、原作は作家の井伏鱒二です。

『ゴジラ』(1954年、本多猪四郎監督)
得能律郎さんと、喜劇『駅前旅館』、SFの傑作『ゴジラ』。興味深い組み合わせです!!

ゲスト:得能律郎(ミュージシャン/米米CLUB「ジョプリン得能」)

大学時代の映画研究会の仲間と米米CLUBを結成。
1984年、CBSソニーより「シャリシャリズム」でデビュー。
米米CLUBでは、ギターとキーボード演奏の他、編曲、ディレクションを担当。
2006年4月より、米米CLUBの活動が再開。

聞き手:船曳真珠(映画監督)

1982年生。東京大学在学時に自主制作した監督作『山間無宿』(00)が調布映画祭でグランプリを受賞。以降も自主制作で映画作りを続け、映画美学校フィクション科を経て短編『夢十夜・海賊版「第五夜」』を監督、同作は07年に吉祥寺バウスシアターで公開された。06年東京芸術大学大学院映像研究科に入学、在学時に監督した『夕映え少女』と卒業制作『錨をなげろ』は共に08年に渋谷ユーロスペースで公開された。
09年には初の長編劇場作品『携帯彼氏』を監督、同作は全国30館以上で公開中。

13:30〜15:30(2時間)
ゲストからコメント(約5分)
『駅前旅館』映画上映(109分)
15:30〜15:40(10分)
休憩
15:40〜18:10(2時間30分)
ゲストによるトーク(約50分)・・・得能律郎さん+船曳真珠監督
映画上映『ゴジラ』(96分)
(なお上映後のトークはありません)

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開催の挨拶

伊達:皆様、本日はお越しいただき、ありがとうございます。司会の伊達浩太朗です。ただいまより、「カルト・ブランシュ」を始めさせていただきます。
尾﨑:女優の尾﨑愛です。宜しくお願い致します。
伊達:本日は、この2人で司会・進行を務めさせていただきます。どうぞ、宜しくお願い致します。
尾﨑:さて、各界で活躍されているゲストの方に日本映画の良さを語って頂き、日本映画の魅力を再発見していくこの企画。本日は第6回目で、米米CLUBの得能律郎さんをゲストにお迎えしています。得能さんに本日の映画のセレクトをしていただき、船曳真珠監督と対談をしていただきます。
伊達:米米CLUBは、メンバーが在籍していた文化学院の映画研究会「A-Ken」が母体で、その映画研究会でつくった8mm映画に音楽をつけるためにバンドを始めたのが結成のキッカケだったそうです。その映画研究会の部長だったのが、今日お招きした得能律郎さんです。では、そろそろゲストの方々に登場していただきたいと思います。

ゲストの挨拶

得能:今日はありがとうございます。米米CLUBでギターを弾いている得能律郎です。よろしくお願いします。
船曳:ご紹介に預かりました船曳真珠と申します。よろしくお願いいたします。
得能:今回、『駅前旅館』(1958年)という映画を皆さんに見てもらおうと思いセレクトしました。私が映画好きになったのは小学生のときで、もちろん漫画とかいっぱい見ていたのですけれど、学校から帰って一番最初にテレビを見ると、やっていたのが映画でした。映画のなかではやっぱり日本映画が、日本語なので分かりやすいし、その中で一番印象的だったのが昭和の臭いがするもの。今はレトロブームで『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)とか、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)とか、色々と映画がありますが、もっと遥かにリアリズムのある昭和の風景が、人間模様があります。是非、本物のリアリズムを堪能してほしいと思って『駅前旅館』を選びました。楽しんで、ひょっとしたらちょっと暗いかもしれないけど、楽しめたらいいなあと。その暗い中に明るさを見出して欲しいです。
船曳:じゃあ、もう上映のほうに。
得能:あの、もう一つ言いたいなあ。森繁久彌さんが先月お亡くなりました。『駅前旅館』は森繁久彌さんの代表作品でもあります。何ていうのかな、どうしてもおじいちゃんのイメージがあるんですけれども、中年の魅力のある森繁久彌さんだと思います。
伊達:ではそろそろ映画上映に移らせていただきます。どうもありがとうございました。皆さん、どうぞお2人を拍手でお送りください。


--- 映画『駅前旅館』(1958年)の上映 ---

尾﨑では、これから得能律郎さんと船曳真珠監督にお話を頂きたいと思います。宜しくお願い致します。
船曳:はい。さて、いま拝見しまして森繁久彌さんが。
得能:カッコいいですよね。森繁久彌さんだけじゃなくて黒柳徹子さんやら、それこそ市原悦子さんとか、すっごい若いころの乙羽信子さん。乙羽信子さんにいたっては、文化学院の卒業生なので私の大先輩だったりします。
船曳:そうなんですね。
得能:三木のり平さんやら、もうなんかいっぱい。
船曳:いやあ、素晴らしい。
得能:ものすごい方がいっぱい出てらっしゃいます。
船曳:もう、錚々たる。

与えられるリアリズムと、想像からくるリアリズム

得能:昭和のレトロなリアリズムみたいなのは、どうでしたか。面白かったですか?
船曳:凄く感じられて、得能さんがおっしゃられていたように、『ALWAYS 三丁目の夕日』とかはレトロにしようしようとしていて、嘘っぽくなって。
得能:何かね。
船曳:ですよね。でも、この作品だとリアルタイムだから、当時あった風俗とか生活の中から出てくる問題とか、古めかしく見せようとしているんじゃなくて、本当にそこにあるって感じですね。
得能:映画とか音楽もそうなんですけれども、多分当時は最先端だと思うんですよ、間違いなく。最先端だし、リアルさを凄く求めて作ったものだと思うんです。本当のリアリズムって、当時オンタイムで見たら、ひょっとしたらリアリズムじゃないかもしれないんですよね。だけど時が過ぎていって、トゲトゲしいリアリズム追求みたいな気持ちが溶けていっちゃうんだと思います。それで、いわゆる銀幕の世界の中では、本当のリアリズムになるのではないかと僕は思います。なんかね、リアリズムの話をしましょうか。
船曳:はい、是非。
得能:さっきも言ったけど、最先端の技術とかを使って、例えば現在みんなが見ている映画ってもの凄くリアルじゃないですか。『ALWAYS 三丁目の夕日』に至ってはもの凄いCGを使って、本来はあるはずの高速道路も消してしまったり、もしくは建物までCGで書いてしまう。CGの絵で書いてしまって、それが凄くリアルだったりすると思います。でね、僕自身が映画大好きで、リアリズムもの凄い大好きだと思っていたんだけど、ニューヨークの9・11でワールドトレードセンターに飛行機がぶつかっちゃった爆発を、高校生の諸君はリアルタイムでは見てないかもしれないけれど、僕はそれをリアルタイムでテレビの映像で見たときに、映画でつくった爆発シーンだとかっていうのは「やっぱり嘘だったんだな」と凄く思いました。あの映像を見たら、もう本当に恐ろしいもの、エンターテインメントとしては全然見られない。本当のあの本物が、あの映像がテレビの中にあって、どんなにやっぱり上手につくってもあくまでもエンターテインメントなので、その中で人が死ぬっていうこともないし。それにその瞬間に死ぬ人じゃなくて、時間を経てビルが崩れたときに死んでしまう人がいるわけではないので、本当のリアリズムを追求するのはやっぱりなんか違うのかなって、僕自身凄く今思っています。次の映画の話になっちゃうね、このまま話してしまうと。
船曳:『ゴジラ』(1954年)の。
得能:『ゴジラ』の話になってしまうんですけど、『ゴジラ』は、いかにもゴジラの中に人が入っていて、ちっちゃいビルを手で壊していて、崩れるシーンをスローモーションでやったりして、リアルさを求めていると思うんだけど、白黒で。さっきの映画は天然色カラー、いや白黒?
船曳:『駅前旅館』はカラーです。
得能:自分のイメージの中では白黒だった。ごめんね。そうそう、夢はカラーでは見ないそうですね。
船曳:らしいですね。
得能:昔の思い出は、白黒になっちゃいます。次に見る『ゴジラ』は白黒です。だから色は自分で想像したりして見なければいけないんだけど。だからリアリズムを求めるよりも、ひょっとしたら心の中に届くのは、天然色カラーじゃなくて、逆に小説を読むと文字から絵が出てくるように、リアリズムを与えて欲しいと求めるのではなくて、リアリズムは頭の中で、自分の中でつくるような。そのほうがよっぽどリアルなんじゃないかなっていうのを、僕は話したかったんです。
船曳:観客は想像力で補うことで物語に没頭できる。そういうことですよね。でもCGとかで見せてしまう。
得能:そうだね。例えば、僕は音楽家でもあるので音の世界の話をすると、歌詞って説明になっちゃうとつまらないじゃないですか。誰にも当てはまらなくなっちゃうし。だから、ある部分、想像出来る世界が音楽なのかなあっとも思うし、絵も出てくるし。音楽も、もし興味があったらオリジナルをつくるのも凄く楽しいことだと思います。で、映研の話しようか。
船曳:はい。
得能:ごめん、俺、ずっと喋っているね(笑)。

子供時代、映画、テレビ

船曳:『駅前旅館』も、得能さんが子どもの頃に。
得能:はい。始まる前にちょっと言ってしまったんですけれど、昭和33年の映画だと思います。僕自身は昭和34年生まれで、これを見たのが小学校の3~4年生の時だとすると10歳ぐらいの時なので、初めて見た時に既にもう「昔のお話し」だったりとかしました。僕らの時代はテレビゲームもないし、見ようと思ったときにマンガが見られるわけでもない。もちろんビデオもなかった。だから見たいテレビ番組は、学校から走って帰ってテレビの前に行ってスイッチ入れて、はじめて見たいものが見れる。今みたいにビデオをTSUTAYAとかで借りて見ることも出来なかった。お小遣いも決まっていたから、昔とはいえやっぱり映画館で見るのは高嶺の花だったりします。テレビっていうのが、今でいうコンピューターでネットの情報を見たりだとかする本当の情報源だった。
船曳:子供たちが社会を知るための窓のような。
得能:窓でした。だからテレビを見なかったからと、クラスで仲間外れになったりすることもありました。今はないよね。
船曳:でも、私の小学校の時はありましたよ。
得能:あった?
船曳:「昨日見た?」とか。
得能:そかそか。でも僕らはオンタイムで見なくちゃならなかった。僕の時代の人間がこの会場にも何人かいるけど、凄く分かってくれると思います。今は映画館で映画が公開されたあと、テレビで放送するまでが短くなっている。2~3年経つとすぐテレビでやる。昔は放送権みたいなのを、お金を出して買って、テレビで放送したりする。しかも字幕で。今はちゃんと吹替えだよね。
船曳:吹替えが多くなってきている気がします。
得能:多いよね。DVDで売るときに、すでに吹替えが入っていたりするもんね。
船曳:字幕を読むのが億劫な方が多くて、吹替えが増えてきています。
得能:そうだよね。吹替え多いよね。昔は吹替えっていうこと自体、今みたいに簡単に作れなかった。それにしゃべっていることを全部訳しても面白くないもんね。翻訳しても、そこに日本人にしか分からないギャグだったり言い回しとかが入らないと、きっと上手に伝わらないと思うんですよね。うち今、かみさんのお母さんが一緒にいるんですけれども、かみさんのお母さんとちょっと映画の話をしたりする。かみさんのお母さんは、まだ60、70歳ちょっと手前なのでまだそんなに歳ではないんですが、そのさらに上のお年寄りがテレビを見て言った感想で面白かったのが、「最近の外人さんは、日本語が上手ね」。凄く印象的だった。そのぐらい日本は吹替え技術みたいなのがすごく上手で。何の話していたんだっけ、俺?(笑)
船曳:当時のテレビでは映画が放送されていてというお話です(笑)。当時は、洋画よりも邦画の方が多かったとか。
得能:そうそう、もの凄く多かった。さっき言いかけたんだけど、ロードショーで公開された洋画って、きっと凄く放送権が高かったんだよ。だからやっぱり邦画の方が、日本で作られたもののほうがちょっとお買い得感があったんだと思います。それで東京12チャンネル(1964年開局。現在はテレビ東京)っていうのがあるんだけれども。あれ、東京の地上波アナログチャンネルは1、3、4、6、8、10、12だよね?
船曳:そうですね。
得能:そうだよね。あれって、放送局が出来た順番だっていうの知っています?
船曳:そうなんですか。知らなかったです。
得能:そうだったはず。ごめん、ちょっといい加減なこと言っちゃった(笑)。でも絶対そう。日テレが一番初めだし、違いましたっけ? 客席にいる同級生が何か言っていますが。違っていたらゴメンなさい。だけど確かそういう話で、12ch(テレビ東京)というのが一番最後にできたテレビ局です。で、当然やっぱり新人さんにはスポンサーがすごく厳しくて、12chはあんまり番組制作費がかけられなかったんです。さっき打ち合わせで言ったけど番組作るとすごいお金がかかる。
船曳:そうですね。
得能:うん。番組でこうやって素敵な女性に隣に来ていただいたりすると、凄くお金取られたりします。
船曳:いえいえ(笑)。
得能:セット作ったりするのもそう。テレビ番組作ると凄くお金がかかる。それよりは映画流したり、もしくはいわゆるテレビ寄席っていってお笑い系を、劇場にカメラを持ち込んで放送したりっていうのが一番安上がりで作りやすかったんだと思います。東京12chっていうのも、もろにそういうお金の無いところで映画とかを凄くいっぱいやっていて、小学校の時に慌てて帰ってチャンネルを合わせて、スイッチを入れるのは12chが多かった。もちろん邦画が多かったんですけれども。皆さん知っているかどうかわからないけどもマリリン・モンローとかジョン・ウェインとか、いわゆる昔のハリウッドのスター達の映画もリバイバルを重ねていると段々と放送権が安くなるので、そういう大昔の映画をいっぱいやっていた。もちろん、身近にいる骨格も一緒で髪の毛も黒くて眼も黒くてっていう日本人の映画もいっぱいやっていた。その中で、やっぱりこれが一つありました。
船曳:『駅前旅館』が何度も再放送されて。
得能:もう何回も何回も。これ、ごめんなさいしっかり回数覚えてないんだけども、あの寅さんシリーズ(『男はつらいよ』。全48作)に匹敵するくらいシリーズ化していて。すごいね、こうやってパソコンで見てみると。
船曳:凄いですねえ。
得能:幾つかこういうのを皆さんにも見えるようにスクリーンに、やっぱり映せばよかったね。
船曳:あ、このパソコン画面をこのままですか?
得能:うん、よく考えたらね。「駅前シリーズ」は全24作あって、当時テレビでかたっぱしからやっていました。この森繁久彌さんと伴淳三郎さんと、フランキー堺さん。「駅前シリーズ」だけじゃなくて、東映の「列車シリーズ」や松竹の「旅行シリーズ」みたいなのもありました。
船曳:そうなんですか。
得能:寝台列車で色んなところに行くっていうのもあった。出ている人が一緒なので、ちょっと自分の中で全部一緒くたになっちゃって。小学生ながらに男と女の関係とか、仕事の辛さとか、お酒飲んだら次の日は頭が痛いとかいうのを、何となく僕はこの世界で習いました。
船曳:当たり前の庶民生活が、ペーソスとユーモアを交えて描かれている。そういう作品ですよね。
得能:そうですね。
船曳:なんか、『11PM』のような。
得能:全部小学校の時の話になってしまって誠に申し訳ないのですけど、『11PM』という番組が昔日本テレビで、それこそ民放の中では一番初めにできた日本テレビでやっていました(1965年番組スタート)。これは小学生ながらにちょっとだけ、ていうか全部エッチな番組でした(笑)。今だったら性教育がちゃんと行き届いて、どういうものかっていうのが、きっと皆分かっていると思うんだけれども。大人はあんまり喋っちゃいけないことだったりするので、子どもは興味津津で頭だけはものすごく想像力で膨らんで。実はその、話しづらいな、今日は女の子いるからな(笑)。女性の裸体がテレビでポンと出てきたりする番組だった。大人の女の人がね、おっぱいがバーンと出てきたりしてね。(笑)
船曳:そうなんですか(笑)。
得能:そういうのがもう見たくて見たくて仕方がないわけです。『11PM』ってくらいなので夜11時からやる番組でした。親も寝室に行ったあと、一人リビングにあるテレビをこっそりと10時半くらいに、支度して前もって見に行ったりしていたのね(笑)。ところが、ある時たまたま見たのが、『11PM』じゃなかった。なんかチャンネルを間違えたみたいで、やっていたのが映画で、それがアルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)でした。え~と、『サイコ』知っていますか? 何ていうのかな、一番怖いシーンのちょっと手前くらいでテレビつけたみたいで、今までみた画像とは違って目が吸い込まれるというか、目を持っていかれる様な映像だったんですよ。で、ずっと見てしまって。そしたら、『サイコ』見たことある人は知っていると思うけど、殺人事件があるんだけど、アルフレッド・ヒッチコック監督は殺人の場の描写をしないんです。人を刺したりとかしない。いわゆる影だけ映って、シャワー浴びている女の人が殺されちゃうんですけれど、シャワーに映った影だけ見せる。殺すシーンはほとんど見せないんだけど、最後にバスタオルのところに血がばーっと流れていくっていうところを、一番感受性の高い小学校3年生くらいの時に見てしまいました。これはもう怖くて、簡単にそういう自分の大好きなものを見れないんだなって、その時に初めて習いましたね。
船曳:何かしら立ちはだかってしまって(笑)。
得能:そうね(笑)。それから夜中にテレビつけているのが親にばれて、なかなか見せてくれなくなっちゃいましたけど。
船曳:あら。
得能:もう大声を上げてしまって。
船曳:やっぱり昔の映画は見せ過ぎない、想像力に賭けられていた。
得能:そうですね。スプラッタムービーとか好きな人が僕の周りにはいっぱいいるんですけれど、なんかそういう、いわゆる死体がそのまま出てきたり。でもそれは確かに気持ち悪いものだけど、本当の人間の怖さってそういうところじゃない。さっきも言ったけど、本当の楽しさもリアルなほど楽しんでもない気がします。だからリアルってどうなのかなって、最近凄くよく思います。

映画研究会の時代

船曳:なるほど。では昔の話の続きで、大学時代の映研のお話を。
得能:はい。今日は客席の真ん中あたりに、僕の学校の後輩たちが来てくれているみたいで。映画研究会なの?
学生: 映画研究会ではないです(客席から)。
得能:あ、研究会ではないの。
学生: あの、色々と芸術を。コースに捉われずに皆で色んな芸術とかを語り合ったり鑑賞したり、やったりみたいな。その中で映画を見たりしています。
得能:うーん、そっか。凄いね。
船曳:文化学院の学生の方々ですね。
得能:文化学院ね、なかなかね。俺たちが元祖だぞ、多分(笑)。僕自身は専攻は建築科でした。で、まあ皆と夏休み過ぎくらいに仲良くなるじゃないですか、夏休み過ぎくらいには。
船曳:はい。
得能:僕の叔父が8mmフィルムのカメラ、皆きっと知らないと思うんだけど8mmビデオじゃなくて、お歳を召した方は知っていると思うんですが、スチールカメラのフィルムと同類のフィルム。でも3分間しか撮れないし、しかも現像して実際撮ったものが見られるまでに最低でも2日かかるので、3日後にならないと撮った映像が見られない映像カメラっていうのがありました。それを叔父さんがくれて、ほんで学校に持っていって仲のいい奴等に「これあるんだけど、何か撮らない?」と言ったのが、映画研究会の始まりでした。僕らは1980年が大学の2年生くらいだったのかな。その時代は音楽でいうとパンクといって、パンク知っていますか?
船曳:パンクですか? もちろん、大好きです。
得能:知っているよね。で、パンクムーヴメントというのがあって。何ていうのかな、その頃景気があまり良くなかったんですね。その後にバブル景気というのが来るんだけれど、バブルの前にすごく景気が落ち込んでいる時期がありました。特にイギリスがもうどうしようもないくらい酷くて。
船曳:ええ。
得能:ほんで若者たちが、まあ反政府みたいな活動をしている人もいたんだけど、単純に仕事がなかったんだね。就職先がなくて、ほんで「どうしたらいいんだー!」みたいなのを音楽に置き換えて爆発した時代でした。僕らは建築科で、僕らの専攻していたところは構造建築、あ、ちょっと前の姉歯さんてご存知ですか?
船曳:はい。
得能:事件になりましたが(耐震強度構造計算書偽装事件、2005年)、僕らの専攻しているところは堅い方じゃなくて、デザインだとかを主軸にやるところだったんですね。さっき後輩たちは芸術と言いましたけど、芸術って結構難しくない? あ、船曳監督は芸術科でいらっしゃいますもんね。
船曳:はい、芸術科です。
得能:やっぱり「芸術って凄く難しいな」と思ったりするんですけども、ちょっとかぶれちゃうんですね。だから物事を真正面で見ない。「これはペットボトルだけど、他になんか違う見方が出来ないかな」みたいな。もうなんか、そういうのが大好きな若者でした、僕は。
船曳:うんうん。
得能:で皆に「映画撮ろうよ」って言ったときに、演劇をやってたわけでもないし、何て言うのかな、ちゃんとした映画を撮ろうっていう気が毛頭なくて、ちょっと「人と違ったことをやりたいな」というのが、ずっと根に当時ありました。
船曳:なるほど。
得能:だからその、何て言うのかな。
船曳:パンクも好きで、気持ちとしては「アナーキーなことがやりたい」という、そういう気持ちですね。
得能:そうそう、その通りです、ありがとう! その通りでございます!(笑) とにかく普通は嫌だったんですよ。今もあんまり好きじゃないんですけど。何かね、変なのを撮りました。それ見るの?
船曳:そうですね、ぜひ。
得能:30年ぐらい前のフィルムなので、簡単に見ることが出来なくて、キチンと確認出来なかったんだけれども。米米CLUBっていうのは映画研究会が元で、その米米CLUBの元のバンドというか母体になったバンドが「Cesspool」というバンド。え~と「下水道」という意味なんですけど、カールスモーキー石井でもジェームス小野田でもない、中島っていうボーカリストがいました。そいつも建築科なんですけれど、そいつが映画研究会で「こういうのやりたい」と言ったデモのフィルムが出てきた。何て言うのかな、アナーキーです。ちなみに僕らのは無声映画。アフレコの入らないパフォーマンスだけでどうにかする映画です。じゃあちょっと見てください。当時の音楽をかけながら見るとピッタリです。


--- 映画研究会時代の作品の上映 ---

船曳:ピッタリでした。
得能:ありがとうございます。
会場: (拍手)
得能:なんで没になったかっていうのが、今改めて見ると良く分かるんですが。
船曳:これあの、ボツ集なんですよね。
得能:映研で「文化祭に向けて、なんかこういうの撮りたいよ」みたいな感じの、プレゼンテーション用に作った1本でしたね。
船曳:あ、そうだったんですね。なんかそのいっぱいあった中で、ボツになったものを集めてっていう。
得能:そうですね、集めて1本の形にして。タイトルを言うのを忘れていましたが、フィルムを入れる缶に『Square』って書いてありました。四角形いっぱい出ていたからそうなのかなあ。
船曳:建築科の方が作られたんですよね。
得能:そうですね、一応建築科なのでビルとか工事現場とか構造物がやっぱり大好きなんですね。
船曳:あの四角が、ビリヤードの玉がなくなると現れるのが面白い。
得能:まあ凄くチープな、チープな感じだと思います。僕が昨日見ながら思ったのは、現在は僕自身もコンピューターいっぱい使っているし、今ここにいる人たちはみんなコンピューター使っていると思うんですよ。コピー&ペーストって簡単に幾らでも出来るじゃないですか。例えばビデオだったら「ここからここを繰り返して」と割と簡単に出来ると思うんです。ところが当時はそんな能力も機材も無かったので、同じものを何回も撮ってこういう風につなげる。何ていうのかな、本当にあるものじゃないとつなぎ合わせが出来なかった。物凄く計算して、まあ計算力がないからこういう形になってしまったと思うんだけど、計算しないと同じシーンの繰り返しって出来なかった。今は簡単に出来てしまうけど。だけど、今この映像を見て思ったのは、凄く面倒くさいことだったり大変なことだったり、もしくはまだまだったりするんだけれども、同じ物の連呼というのは、ひょっとしたらちょっとずつ違う方が面白いのかなと。
船曳:全部1回限りのこととして、フィルムに定着するっていうのが面白い。
得能:そう。それをしかも人力で。ファイナルカットプロっていう、あっソフトの名前言っちゃだめか。
船曳:あ、大丈夫だと思います。
得能:大丈夫? そういうソフトで簡単に出来てしまう。けど、やっぱり何かもったいない根性というか、没のものも1本にするとこうやって見られるのかなとか思ったりします。
船曳:そうですね、「現像してみないと分からない」とか、8mmの、フィルムというものの特性っていうのが。
得能:なんか今ね、こうやってたまたま、まあたまたまっていうか、ホント30年振りぐらいに見た僕自身の感想は、8mmフィルムって本当に8mmで、1cmよりも小さい。
船曳:フィルムの幅が8mmなんですよね。
得能:そう。その中の映像が結構綺麗だったりして。
船曳:そうですね、かなり綺麗に見れる。
得能:元々あまり綺麗じゃないと思っているから綺麗に見えるところもあると思うんですけど、今ハイビジョンで毛穴まで見えてしまう時代だけど、この凄いザラザラした感じも。
船曳:うん、カッコいい。
得能:カッコいいのかなって思います。さっき言ったリアリズムだよね、こういうのもね。
船曳:感触があるということですよね。このフィルムには入っていなかったですけど、その頃撮られていた作品で、スクランブル交差点の真ん中で。
得能:そうですね、このフィルムは多分2本目を作るためのプロモーション用だったと思うんですけど、1本目に実はそのカメラを借りてきてもらって、スクランブル交差点ってあるじゃないですか。
船曳:渋谷の?
得能:いや、御茶ノ水ですね。
船曳:あ、御茶ノ水の駅前の。
得能:駅前から1つ降りたところにマロニエ通りというのがあって、客席にいる後輩たちは多分知っていますが、ちょっと九段下に下りたほうにスクランブル交差点があって、その交差点で黒ずくめの、ブルース・ブラザースって分かるかな、あの黒い帽子かぶってレイバンっていう黒いサングラスかけて。
船曳:アメリカのコメディ映画『ブルース・ブラザース』(1980年)。ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが。
得能:そうです。
船曳:そういう格好をしてやっていた。
得能:お葬式の格好みたいな。その格好をした20人くらいが交差点の四隅に散っていて、信号が青になった瞬間にスクランブル交差点のど真ん中に入ってきて、みんな急に痺れだす。
船曳:はい。
得能:20人が。さっきの作品でちょっと痺れているシーンあったけど、ああいう痺れ方を20人がするとやっぱり強力だったりするわけで。
船曳:いやあ、見たかったです、その映像。
得能:で、スクランブル交差点が青の間ずっと痺れていて、信号が点滅し始めると「終わるぞー!」と来た方向にそれぞれ何も無かったかの様に散っていく。周りにいる人たちのびっくりした顔が映っていたり、「何事か!?」みたいのが撮れていたりする。
船曳:あと電車のドアが開いた途端。
得能:はい。地下鉄のホームのところでカメラがこうやって待っているんです。
船曳:はい。
得能:ちょうどそこでドアが開いて、急にパンキッシュ(パンク風)な格好をしたやつがギター持って、もう弾きまくっている。ほんでドアが閉まる寸前に乗って、そのまま帰っていく(笑)。
船曳:完全なゲリラ(笑)。
得能:もう完璧なゲリラ撮影なんだけど、こういう画面の中で見ると結構面白かったり。で、さっきかけたのは「Talking Heads」というそれこそ1980年くらいのアルバムなんですけれども(1977年発売)、無声映画なんでそのパンクの始まりの頃の曲を乗せて、音楽と映像の、まあ今でいうコラボレーションみたいなことをやっていました。
船曳:そうなんですか。
得能:あっちの(客席の)端にいる方が、酔っぱらってアパートに帰るんですよ。酔っぱらっているんで水飲みたいじゃないですか。だから水道ひねって水飲むんです。布団の中に入ると、ふと目が覚める。酔っぱらっていると1時間くらいで目が覚めるんです。経験ないですよね?
船曳:いや~、あります(笑)。
得能:1時間くらいで目が覚めるんですけど、起きると何故か電車の中に寝ている。「これは夢なんじゃないか」とビックリして、また慌てて寝るんです。次に目が覚めると今度はスクランブル交差点で寝ていて、「これも夢か」と思って寝るんです。でいつのまにか江ノ島の浜辺に打ち上げられて寝ていたり。ここで見せたかったフィルムを、学生時代に文化祭で2日間上映したんですけれど、結構ウケたりして「面白いよ、また来年やってよ」なんて言われて、そうするとご機嫌になっちゃうじゃないですか。それで飲みに行ったんですよね。で、酔っぱらって電車に乗ってちょっと混んでいたんです。フィルムって結構重くて30分くらいのフィルムが5キロくらい、いや3~4キロかな。それを私が網棚の上に置いちゃいました。それで降りちゃいまして無くなっちゃった。その残りがこれだったかもしれません。ということにしておくと、ちょっと話が美しくなるかな(笑)。
船曳:夢うつつというか、シュールなものを皆で作りたいという思いがあった。
得能:そうです。斜(はす)にものを見たり、ストレートに話しをしないことを「カッコいい」と思っていた時代なので。今もちょっとあるかもしれないけど。
船曳:それが米米CLUBの。あ、米米CLUBは映画のサントラをつくるために結成したっていう。
得能:そうだね。映画研究会にあつまったメンバーっていうのは建築科なんですけど、割と話しが合うのって同じ趣味っていうか、そういう奴と話が合うじゃないですか。それぞれみんな高校生からバンドやっていたり他の大学でバンドやっていたり、そんなやつらが速攻こういうのに興味を持ってくれて。1作品目は、さっき言った無くしてしまったフィルムは、パンクの音楽と映像とのコラボレーションだったんです。
船曳:上映時にもそういうことされたんですか。今日みたいな感じで。
得能:そうです。2年目に作品作るときに、みんな音楽やってたりするので「サントラは自分たちでつくろうよ。バンドやろうか」っていったのが直接のきっかけだったんですね。
船曳:なるほど。じゃあ米米CLUBの原型として、この映像があったということですね。
得能:はい。
船曳:技術がないところから作りだそうっていう、当時そんな強い想いがあったと。
得能:道具がないと出来ないって思いがちじゃないですか。ギター引く前ですが、僕はちっちゃい時プラモデルが好きで。でもお金がないと買えない。そんなときに木片みたいなの拾ってきて、船とか戦車とか組み立てたりするのが楽しくて。プラモデルはご褒美としてしか手に入らなかったので。何ていうか、道具がそろってないと出来ない、プラモデルのキットがないと楽しめないというのは違うんじゃないかなと思います。例えば、テレビゲームって楽しいじゃん。僕も息子も好きで一緒にやったりするけど、なんていうのかな、マルバツとかさ。分かんないけど。
船曳:線を引いて。
得能:そうそう。お金がなくても、何かをやって楽しむことが出来る。勝ったり負けたりするのが楽しいのであって、高価なゲームがないとコミュニケーション取れないとか、コンピューターがないと調べ物が出来ないとかってことは、本当はないじゃない。ネットで簡単に調べられちゃうけども、何かホントは、ここに入っている出来合いのものは「知識」でしかないと思うんですよ。でもそうじゃなくて、「このペットボトルで何かしない?」というのが「知恵」だと思うんですよね。だから知識と知恵をうまく利用出来たら楽しいんじゃないかなって思います。
船曳:このあと上映する『ゴジラ』も、そういう思いで皆さんに見ていただきたい?
得能:そうですね。どっかの目線からみたらチープだと思うんですよ。でもこれ、うちの息子と4年くらい前に一緒にレーザーディスクで見ました。レーザーディスクはいま世間にはもうないけど、うちにはまだあるので。息子17歳だから中学2年くらいの時に見たんですけれど、もう小さい頃からディズニーのCGもあったし、もの凄くリアルなCG映像をずっと見ていた子なんですけど、見始めたら「怖い」と言いましたからね。その怖さが、ひょっとしたら作り手の、お客の想像力をかきたてるテクニックなんじゃないかなと思ったりします。
船曳:白黒だし、特撮も今の観点からいえばチープなんだけれども、迫力ですよね。作品の持っている力強さ。生々しく怪獣の怖さが迫ってくる。傑作です。
得能:元祖っていう感じです。
船曳:はい。

尾﨑:興味深いお話し、ありがとうございました。ではこれから映画『ゴジラ』を上映致します。なお、上映後のトークはございませんので、得能律郎さんと船曳真珠監督は本日はここで終了となります。どうぞ皆さま、お2人を拍手でお送りください。


--- 映画『ゴジラ』(1954年)を上映 ---

伊達:皆さま、如何だったでしょうか。このような感じで、日本映画の良さを再発見していくというこの取り組みを、来年度以降も続けていけたらと思っております。以上をもちまして、本日の、そして本年度の「カルト・ブランシュ」を終了させていただきます。本日は長い時間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。